Collaboration– 03 –
開催趣旨
京都には、「文化」がある。
それは一朝一夕に培われたものではなく。ものづくり、芸能、食、風習に根ざして多くの人の手で長い歳月を経て醸成されたものだ。
弊社は、企業理念として「温故知新」を掲げている。
ここ京都で、古き良きものから学び、新たな価値観を創造するモノづくりを目指す以上、「文化」を受け継いで継承してゆく人たちの感性に触れない手はない。
今回は共同代表の吉村が、京都に本拠を構える「大蔵流 茂山千五郎家」の 狂言師(*1)、茂山あきら氏と「伝統」や「美」を切り口に対談を行った。
ゲストスピーカー
茂山 あきら(しげやま あきら) 1952年6月12日生まれ。二世茂山千之丞の長男。父および祖父三世茂山千作に師事。
1975年『三番三』および『釣狐』、1994年『花子』を披く。
2001年より狂言と新作落語のコラボレーション<落言(らくげん)の会>「お米とお豆腐」を結成し、全国津々浦々で活動中。
その他オペラや新劇、パフォーマンスなどの企画・構成・演出なども手がけるマルチな舞台人間。
国境も言葉もジャンルも飛び越えたワールドワイドな演劇活動を展開している。
著書に「京都の罠」(KKベストセラーズ)がある。
第31回京都府文化賞功労賞受賞。
ファシリテーター
吉村 成一(よしむら せいいち)株式会社THREE-M 共同代表取締役/COO 同志社大学経済学部を卒業。自身が今後使いたい化粧品を作るために起業。男性用化粧品を通じて、京男の地位向上をめざす。趣味は狂言、スキー。桐炭を配合したオールインワンジェル「QuickOrganizer(クイックオルガナイザー)」は高級旅館などでアメニティとして採用されている。
01.「狂言」からひも解く「京都」らしさ
先生には長年お世話になって参りましたが(注:吉村は4歳より狂言を学び、茂山氏に師事している)、こうして対面してお話させて頂くのは実は初めてかもしれません。本日はどうぞよろしくお願い致します。
そうやねえ、よろしくおねがいします。
では早速ですが、まず狂言の舞台に立つうえで、特に気を遣ってらっしゃることはありますか?
人前に立つので、顔は傷付けないようにしていますね。若い頃は喧嘩なんかもしましたけれど、顔だけは守るようにしていました。例え酔いすぎて転びそうになっても顔の怪我には気を付けています。
”酔っていても”というところに意識の高さを感じます。確かに狂言では、役者の表情が重要ですよね。
私は狂言を「立落語」と表現している。落語、つまり人を笑わすもの。「室町時代の吉本新喜劇」という例えをよくするんやけれども、現代でいうコントと同じようなものやと思っています。
狂言にはもちろん歴史・伝統があるんやけど。親しみやすい要素が多分にあります。
茂山一門の狂言は「お豆腐狂言」だと言われていますが、どのような意味なのでしょうか。
京都でいう「おばんざい」、つまりおかずの例えなんやけれども。
身近で、相手を選ばずどんな色にも染まり、でも相手には取り込まれない確固たる軸をもっている。そんなお豆腐のような親しみやすい狂言というのを、僕らは目指しています。
狂言は古典やさかいある程度のフォームはあるけれども、それも時代とともにせめぎ合って、徐々に変化していってるんですよ。
変えていく部分と、変えずに伝えていく部分があるのですね。
狂言は遡れば、室町時代からの歴史があると言われてるんやけれども。そこからこれだけ月日が流れると、人も当然変化します。ファッションで言えば、ちょんまげに着物の格好から洋服へと時代が変わってますやろう。「はな」という言葉も、今は「はな」言うたら桜を指すことが一般的やけれども、昔は梅の花をそう呼んだものです。
特に京都は、京都人が支配したことがない町。施政者が時代とともに変遷してきたわけで、その人たちの言うことをある程度聞きながら、こちらも聞かさせてバランスを取ってこなあきませんでした。
変わりゆく世の中で、前から続いてきたものをどのように現代につないでいくか。
時代が変わっても、与えられる側、つまり見てくれるお客さんがわかるように、与える自分も変わらなければいけない。そやけれども、古典としてのある程度のラインは保っていなければならない。そこは難しいところではあるわなぁ。
京町屋の、間口は狭いけど入ってみると広い構造とか、京都人の親しくなるまで手の内を明かさへん気質なんかも、目まぐるしく変わる時代に対応していくための知恵なんやろうね。
なるほど。確かに、京都にはそういう独特なところがありますよね。時代や人は変われども、変わらぬ京都らしさがあるように思います。先生は “京都らしさ” をどのようにお考えですか。
日本の自然はそんなに厳しくなくて、穏やかでしょう。穏やかやから文化が発達したんです。
もし自然のあり方がもっと厳しければ、また違ったんちゃうかなと思います。例えばヨーロッパなんかは、冬が寒くて厳しい環境やからこそ、技術が発達して文明が発達したわけや。
しかし日本は、なかでも京都は四季がはっきりしているよね。
やからこそ「桜は散り際が美しい」という価値観やったり、郷愁なんかの感覚を得られるんやと思います。
とは言え、この価値観も未来には変わっているかもしれへんね。
変わると言えば、商売の在り方なんかも変わってきたね。
「みやこ」というのは消費地。人やモノが大量に集まってくる中で、「見る目」が昔の商売人には必要やったんです。そやから京都には、商売人が目利きをして、いいものを地方から仕入れて販売する専門店がたくさんあったんやけれども。
言われてみれば京都には、今でも和紙屋さんが沢山ありますが、どこか違う場所から仕入れてきている。京都で生産しているわけではないですね。
現代では流通が変化して、良いものも手に入りにくいものも、大体のモノがどこでも買えるようになりましたなぁ。これも文明が発達したからやね。
京都であろうが東京であろうが、大体のモノは手に入るもんなぁ。
これも文明が発達したからやね。
東京が文明の街であるならば、京都は文化の町である。
文明では東京に勝てっこないんやから、京都が目指すべきは文化を育むことやろうと思います。おそらくこれから先は、今までと同じように京都もあぐらをかいてはいられへんのとちゃうやろうか。
もっと京都を世界に押し出していきたいよね。しかし京都の男はモテるイメージがないなあ。
02.「上等な男」の作り方
東京と京都といえば「東男に京女」という言葉がありますが、京男は京女に比べてあまりぱっとしないですよね。どうやったら京男はモテるようになるのでしょうか。
文化を学び、教養を身につけることです。単に学校で教わるような勉強をするんやのうて、考え方を身につける。「上等の男」になることです。粋とか言うんやけどもね。
粋というものも、どんどん変わって行く。頭の中がどれだけ多岐にわたっているか、頭の中にどれだけの引き出しを持っているかが重要。そこを育てたいなら、本を読みなさい。前近代的な考えだが、頭の中に残すのに活字は便利。たくさんの記憶をしまうには文字やと思う。
映像はイマジネーションであり感性的だが、人間は言葉で思考する。引き出しを増やすには本やろなぁ。
音楽はまた別。文字は頭に残るが、音楽は体の中にリズムとなって残る。例えば狂言で使うすり足は日本の文化・日本のリズム。これを取り入れることによってオリエンタルなものとなる。
粋人のライフスタイルに適合するような化粧品をつくりたいのですが、いいアイデアはありますか。
安心感と安定感を大事にすることだと思う。ずっと同じデザインの主力商品(定番)と、それを含めながら少しずつ変わって行く商品を作ること。でもどちらもベースは変わらない、ゼロラインを作ること。そこは変えてはいけない。
それから、バカバカしさ。驚き(と落胆と)。驚きとは発見やわな、こんなものもあったかい? という。同じものでも角度を変えると全然違うものに見えてくる。どこから見るか・視点を変えるかを考えることが大事やね。誰でも知ってるものやのに視点を変えることで、常に驚きが提供できたら、︎ある意味可能性は無限大。思うに(仏教やキリスト教、イスラム教を問わず)宗教にはそれがある。
03.「美しい」とはどういうことか。
「美」をどのように考えていらっしゃいますか?
美はすべてのものに内包されているはず。ただ、その美というのが他人と共通できるかどうか。
そこが難しい。美というのは宗教・文化何もかもの命題やろうね。
何が美しいのか。見方を変えれば汚いかもしれん。
完全なものってありうるか? 不完全やからこそ人間は生きられる。
一神教の世界なら、完全なものイコール唯一神。しかし日本は八百万の神々がいる。完全な神って面白いか?
ちょっと足らんからこそ自分のこともわかってもらえるような気がする。
完全無欠は怖いだけやと思う。
ミロのヴィーナス、サモトラケのニケが美しいのも足りない部分があるからこそかもしれません。
完全な美、綺麗なものというのは、おそらく文化系統の人間にはわからない。理系の人の方がわかるんちゃうか。数字が綺麗なんや。円周率の割り切れない綺麗さとかね。
一言に美と言っても色々な切り口があるものですね。
何が綺麗か、みんなが同じものを綺麗だと思わなくてもいい。でも、自分が綺麗だと思うものに対しての説明は必要なんちゃうかな。
これは綺麗だ、それはなぜか、という解明を自分なりにしないといけない。
自分で考えて、良し悪しがちゃんと判断できる人はなかなかいない。大まかにでも判断できる人がいたら世の中随分変わってくる。

現代は不等式の時代やと思っている。1たす1は2じゃなくってもいいのよ、という世界。正解がなくなっている。
一つの意見から逸れるとおかしな奴やと扱われる世の中やけども、反対意見は必要やと思う。
私たちが十代の頃はもっと自由でしたが、現在の世の中は共通の価値観から逸脱するとすぐに排除される風潮があるように思います。
そんな共通の価値観が必要やろか? いいか悪いか、白と黒、はっきり分けようとしているよね。無限大にグレーゾーンがあるのに、真っ白け・真っ黒けでないとダメなんやろうか。灰色を悪いと言ってしまうと白も黒もないと思うけどなあ。
経済的な概念で人間を見るようになってしまったんやろうなと思うね。
美だけやなくて、利益・欲望 そこらへんの説明もちゃんとしていかないといけない。
人類はこの150年間、急ぎすぎなんちゃうかな。どれだけ世界を変えていったか。今の地球のキャパシティを超えていると思うし、人間の欲望と進歩のバランスが取れてないのでは。
ノーベルやアインシュタインも自分の美学を追求した。人類の進歩には大きく貢献した。一方ではそれが遠因で亡くなった人もたくさんある。
文明は限りを知らない。
でも誰も止められない・もうそういう方向に雪だるま式に転がっていっている。
今の人ってどういうところで次の世代に責任を持つんやろか。どうしていくのや?
でも、誰も考えてない。
理屈や正論じゃ答えが出せない時代。もう新しい宗教立ち上げようか。
文明が文化を置き去りにして、人間のキャパシティを超えつつあるのかもしれません。
文明というものは物事を便利・楽にする。すると、︎できないことが多くなる。そしてやらなくなっていくね。
そこまでズボラを認めちゃっていいのか?
感謝の念を他己に持てるか? ボタンひとつで世界が終わってしまうというこの時代に救いがあるとしたら、それなんだろうね。
自己を大事にするように他己を大事にしよう。
04.「色気」の本質
先生は同性の私からみても色気を感じます。色気はどうしたら培えるんでしょう。
色気言うんは持とうと思って持てるもんではない。フリーハンドで居られるということだと思う。僕はスケベで、すべてのことに興味がある。知らないことがあるのが嫌なんや。人の生活をなぞらえたい・目撃したいという気持ちがあります。
フリーハンドでどの色を描いていくか。四季があるから日本人の色彩感覚は海外と違うと思う。
色の変化や闇の中の明かりを見ているようなもの、日本人にとって「色」って自然なんだろうね。その辺の感覚はおそらく明治以降かなり失われているのでは。
  自然光と共に生きていた。影の部分が大事なところやったのでは。
谷崎潤一郎の陰翳礼讃(*2)の世界感ですね。
現代では見えないことを恐れて、何でも見えるようにしている。でも実は、見えないことほど重要なんや。隠しているものこそ、隠しているからこそ、綺麗なんちゃうかな。 ファッションにしても、隠すという文化が日本から奪われてきている気がする。隠した方が想像は豊かになると思うんやけど。隠さない方に行き過ぎている。
伝統というのは実はオブラートに包んでいるものがある、伝統というフィルターがある。裸体という想像こそが一番のエロス・一番の美。どういう風に隠すかという方法論はある。いかに色っぽく隠すか。
抽象・イメージというものを大事にすべきと思う。
なるほど。イメージですか。
美というものは外から与えられているのではなく実は自分の中にある。
自分にとっての綺麗さというのが八百万あるはずなのに、他己に美を強制していること(一神教の考え方)によって、世の中は悪くなっている気がする。
なるべく他己を近づけないでおこうとしている。他己は怖いもんだろう、みたいな考えが蔓延している。
ベクトルをちょっと違う方向性へもって行きたい。
ちょっと角度を緩めようとか。絶対って多分ないんだろう。まあ、マシか、の方向へ。
すべての人が自由に成れたらいい。
便利に生きようと思うから決まりができて、今ではそれに人間が縛られている。もっと自由にいくべきやろうね。
流行り物というのも流行らせる人がいる。それに乗っけてもらうのが楽で、人の責任にできるから流行っていく。情報に対して疑うということをほとんどやらない。それは非常に怖いことであると思う、多分。
考えることを放棄しているのですかね。自分自身と向き合えていない人が多いと思います。
一言で言えばみんな忙しすぎる。やることが多すぎる。それが実はやれないことも増やしている。
何をするかは、自分の知り尽くしているゼロライン・起点から見て選択するべきやと思う。そのためには、自分の「ゼロゼロ地点」がどこにあるんか見つけないといけないね。何かを素晴らしいと感じた時、「素晴らしいのかい本当に」ということを疑わないといけない。
自分自身のベースとなるゼロゼロ地点を見つけられない人が今、多い。
それを見つけるには、やっぱり頭の中に引き出しをたくさん持つこと。寺山修司じゃないが、「町を捨てよ、書を読もう」なんてね。みんなもっと本を読んでほしいなと思う。ふらっと本屋に行って手に取った本で人生が変わる可能性があるのに、その努力をする人がいない。忙しいんやね。
しかしモノを選ぶときに、みなさんもっと自分自身の選択を持たれたらいいのではないかね、と思う。酒と本と他人とは上手に付き合いましょう。
モノの選び方についてですが、持ち物・身の回りのもののこだわりはありますか?
メガネ・時計など小物類が好きやね。少し理性で考えているかな。
身の回りのモノは自分が良いと思ったもので固めている。
でも服は機能性重視。あったかい・着やすいなど首から下で考えている。
首から上といえば、先生の髪型素敵ですね。
髪を切りに行ったとき、パッと雑誌を開いたら、 藤田嗣治(*3)の絵があったんや。それでこれにしてくださいと。
頭で考える思考と首から下の思考のバランスをとって生きていければいいね。役者としても、人間としても。「いじる・手慰み」と言うが、頭の引き出しと同時に肉体からのリズム。首から上も首から下も正解が無意識で出ているというのが理想やね。意識して出しているうちはまだまだ。
05.芝居は生モノ
先生にとって役者とは、舞台とはどのようなものでしょうか
私は芸能者であるわけだが、芸能者の原点は「自己を喜ばす」こと。塗り絵の枠を提供している、色を塗るのは鑑賞者自身。「あなたのやってくれたことによって私はこれに気づいた」となれば嬉しいなぁ。気づく人は気づく素養を持っている訳やね。素養を持つことも教養の一つやと思う。
演者と気づいたお客さんの関係で成り立っているのですね。
枠組みを「多様性を持って」提示できるのが芸術性。いろいろの可能性を提示できるのが面白い。
演じるという瞬間とそれを見る瞬間に、その役の生きる時間を共有できるのが舞台、生モノの芝居。
見る側見られる側は相対しているけれども、時間軸だけは共有できる。それが生物の芝居の凄さ。
一期一会の舞台の「この空間にいられた喜び」を作る材料になれるのが生モノの面白さ。一緒の時間を作れるということが実はすごいことやと思う。
舞台といえば、先生は京都に小劇場【Theatre E9 Kyoto】をつくるべく活動されてますよね。
僕たちの世代は身近に劇場があって文化的に恵まれていた。けれど現在、京都から小劇場はどんどん姿を消している。若者にそういう場所がなければ、文化に恵まれなくなってしまう。文化といえども、物理的なもんから作らないと、誰も何もできない。今の京都ってアンティックな古さではないよね。 悠久というのにも限度がある。壊れる・燃える無くなるもの。古さは一番壊れやすいものだと思う。
僕たちの世代は若者に負の遺産をたくさん与えてしまったから、正の遺産も残さないとなと。いうことで劇場だけきっちり作ればいいやろと。
先生の「夢」なんかはありますでしょうか。
終末思考というのが昔流行ったが、最初が見れんかったから最後は見たいなとは思う。なんてね。笑


お豆腐狂言 茂山千五郎家 : http://kyotokyogen.com/
童子カンパニー : http://dojicompany.jp/index.html
Theatre E9 Kyoto : https://askyoto.or.jp/e9/

*1 狂言 : 日本の古典芸能の一。猿楽のこっけいな物真似 (ものまね) の要素が洗練されて、室町時代に成立したせりふ劇。茂山千五郎家では親しみやすい狂言を目指し「お豆腐狂言」を広く普及されている。

*2 陰翳礼讃 : 谷崎潤一郎の随筆。「経済往来」誌の昭和8年(1933)12月号と翌年1月号に掲載。薄暗い明かりに象徴される日本の伝統美を論じる。
谷崎潤一郎は生前、茂山あきら氏の父親である、二世茂山千之丞氏と交流があった。(出展:デジタル大辞泉)

*3 藤田嗣治 : [1886~1968]洋画家。東京の生まれ。渡仏し、エコール‐ド‐パリの一員として名をなした。乳白色の地に面相筆で線描する独自の画風で知られる。第二次大戦後、フランスに帰化。のち、カトリックの洗礼を受け、レオナール=フジタと称した。(出展:デジタル大辞泉)
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